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8 狂気について


 先日、ふと夜中に目が覚めかけ、夢と現実のはざまでこんな経験をした。
 我が家の寝室には窓がある。一階なので、そこは外の通りと面している。暑かったのでその窓を少し開けて寝ていたのだが、ふとうつらうつらしながら、「もしかしたら、そこから誰かが入ってくるかもしれないな」と考えた。
 普段なら、「まあ、そんなことはないか」と流すところなのだが、不思議なことに、そのときはやけに気になって「誰かが入ってきたらどうしよう」「きっと、誰かが入ってくる」「誰かが、そこにいる」「その誰かに、俺は襲われる」どんどん妄想が膨らんでいく。「俺は誰かに殺される」「俺は殺される」「殺される」「殺されるのだ」「うわあ」
 はっと飛び起きた。寝汗をびっしょりとかきつつ、慌ててその窓を閉め、鍵をかけた。ようやくホッとしたその瞬間、僕は我に返り、こう思った。「なんでこんな憔悴してるんだ? 誰かが入ってくるなんてこと、ましてや殺されるなんて、あるはずもないのに」
 だが、もしかすると、狂気に苛まれる人の心情とはこういうものなのかもしれない。
 後から分析するに、おそらくこのとき、僕は夢うつつのはざまで脳の機能がバランスを崩していたのが原因だろう、セロトニンかドーパミンかエンドルフィンかはわからないが、分泌異常を起こしていたのだ。だから、窓が開いているという事実から、誰かが入ってきて自分を殺すという妄想をし、その妄想にとらわれたのだ。
 このことから、二つのことが理解できた。ひとつは「自分の脳とは、こんなに信用ならないものなのか」ということであり、もうひとつは「だから自分はいつでも容易に狂いうる可能性を孕んでいる」ということだ。
 今は夢うつつだから脳が異常を起こした。しかしこの異常が普通の生活を送っている最中に起こったらどうなるのか。周囲にある些細なことから妄想を膨らまし、それにとらわれるということも、まさに今、自分の身に起こりうることなのではないか。
 脳みそなんて化学物質の絶妙なバランスの上にやっと意識を保っている臓器にすぎないのだ。ほんの数分後にも、それが正しいことだと疑いもせずに、ナイフを持って振り回すことだってあるかもしれない。そう考えれば人間というのは、自分たちが考えている以上に、本質的には脆いものなのかもしれない。

 

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