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7 批評について

 

 あらかじめ申し上げておくと、いみじくも商品として小説を世に出して、少なくない出費をさせ駄文を読ませている立場である限り、紙面、ネット、手紙、口頭等を通じていただく批評というものに対しては、いかなるものであれ、すべて真摯に受け止めている覚悟でいる。

 とはいえ、それと作者としてどんな悲喜こもごもを抱くかという点はまったく別物であるわけで。そりゃあ僕も人間であるからには、デビューしてもう2年にもなるというのに、批評に対してはいつも一喜一憂しているというのが現実です。
 特にぐさりとくるのが、紙面による批評だ。紙面というのは公器なので、基本的にはそれなりの格があり、これまでの批評に信頼性があると確認されている人間が書く。だからこそその批評には説得性があって、切っ先が鋭い。自分でも「あーここはだめだな」と思っていた場所を的確に叩いてくる。弱点が狙われるのだ。これは瞬間的ダメージがでかい。もう俺はだめだと頭を抱える。暗い部屋で悔し涙を流す。そのままふて寝する。とはいえ、立ち直りは早い。自分でも薄々感じていたからであるし、そもそも本当にダメなものなら紙面にさえ載らないはずだ、と自分を慰めることができるからだ。
 次にしんどいのは口頭による批評だが、幸いにしてこの類の酷評は聞いたことがない。そりゃ当たり前だ。面と向かって「お前の小説つまんねえな」と言う馬鹿はない。そういうのは本人には「周木さんの本、なかなか読めましたよう」とへらへら笑いつつ、心の中でこっそり「こいつの本、つまんねえんだよな」と罵ったり、陰で「周木? ダメダメ」などとこそこそ悪口を言ったりすべきものだということを、誰もが知っている。幸いにして、僕の周囲にはそれすらできない常識のない人はいない。
 さて、二十年前の古き良き文壇ならばここでおしまいとなるわけだが、今はインターネットというものが存在しており、この世界からの酷評というものもたくさん存在している。これが地味にきつい。なぜなら、内心や本来陰でこそこそ言うべきことがすべて筒抜けになっているからだ。それらが何のフィルターもなくだだ漏れになっているのは、トイレの個室で用を足していたら同僚が自分の悪口をへらへら笑いながら言っているのを聞いてしまったようなばつの悪さも込みで、ズンと心を抉る。

 もっとも、批評抜きでは作者も成長しない。「周木(笑)あいつほんと最悪だよ。文章は読みづらいし間違いだらけ。天才がまったく天才に見えないし、内容も二番煎じ、他作の劣化版もいいところ。丸パクリっていうの? 要するにゴミ。ゴミ作家だよ。そもそもミステリのセンスが皆無のダメミス作家、いやゴミミス作家かな(笑)○○(大作家)の爪の垢でも煎じて飲んで死ね」――という界隈からのお言葉を真摯に頂戴しつつ、ああ俺はダメなのだ才能もないのだもう死んだほうがいいのだと号泣しながら、にもかかわらずなんとか次も読んでもらうべく、自分で自分を鞭打ちつつ日々パソコンに向かっています。

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