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69 政治コメントについて

 一言言わずにはおれない、というのは、どんな場合でも人間の性なのかもしれない。
 僕はあまり性格的に向いていないツイッターにアカウントを持っているが(5年でツイートは4000にも満たない)、タイムラインはたまに見る。すると、少なくない割合で、政治に関するコメントをしている人々に出くわす。
 匿名性ということもあってか、そのコメントは極端になものが多い。「そういう場面でこそ言葉は選んだ方がいいよ、そうでないと現実にもつい激しい言葉が出てしまうから」とアドバイスしたくなるが、まあ一種のストレス発散のようなものなのだろうし、ある意味では庶民の特権なのだろう、と、ニコニコしながらスクロールして画面外へ流している。
 それでも、そのスクロールの手が止まり、笑顔になりきれず眉を顰めてしまうこともある。
 ある一定の知名度を持った人々の、激しいツイートを見たような場合だ。
 有名人であったり、芸能人であったり、はたまた同業者であったり――種類はさまざまだが、フォロワーをたくさん持つようなよく知られた人々が、安易に政治的コメントをしているのは、率直に言って良いことではないと感じている。
 たとえ話をする。
 芸術家であるAと、鑑定家であるBがいる。Aは毎日苦悩し汗を掻き芸術作品を生み出している。一方のBは芸術に関する多くの書物や文献に当たりまた生の芸術作品に触れて研鑽している。ここにもうひとり、Cが現れる。このCは政治家だ。何期も当選し要職にも就いている剛腕としてよく知られれている。さて――AとBがある絵画作品についてさまざまな議論を交わす中、Cがやってきて、絵画作品を見るなり鼻で嗤った。「はあ? 何だこの絵。子供が描いたのか? お前ら、こんな絵に拘ってないでもっといい絵に親しめ」
 ――僕が何を言いたいかというと、ツイッター内で起こっていることは、この逆だということである。
 僕は以前、こんなことを書いた。「僕は政治に関しては何も述べないことにしている。述べる資格もなければ知識もなく、批判に値するだけの汗を自分で掻いてもいないからだ」これはまさに、批判という行為に対する自らの適格性を述べたものだが、その裏には、無教養な者にもフォロワーがいるのだから、そのフォロワーを惑わさないためにも口を閉ざすべきだという考え方を含ませている。
 今一度、ツイッターを見る。その中には、政治に関して変なことを言っている著名人が山ほどいる。その中には僕が文芸において尊敬する方々もいて、かなり激しい言葉を使うため、とても複雑な気持ちにさせられる。「あー、よくわかりもしないことを、物知り顔で言ってしまうんだ、少なくない人が影響を受けたらどうするつもりなんだろう……」と、げんなりするのだ。(なお、古野先輩を除く。古野先輩は元官僚だ。政治の世界とも仕事をしていた人には発言の適格性があるのだ)
 僕自身はもちろん、政治に関しコメントしない。ただ、信念は持っている。投票行動は信念に基づき行うし、自らの判断が民主主義に適い国をよくする一票となるだろうことをいつも信じている。
 少なくとも、自分が何ひとつ専門性を持っていない分野であるにもかかわらず、政治の世界に対して、「テレビから得た知識」と「イメージ」と「好き嫌い」だけで判断し、あまつさえフォロワーに向けて喧伝するような、戦時中と何ひとつ変わらない行動を起こすことだけは、厳に慎んでいる。
 もちろん、それをする理由はただひとつ。あまりにも醜悪だからである。

 

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