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64 書評について

 書評についてもう少し掘り下げるが、素人さんの書評は、意外と参考にさせていただいている。
 猫も杓子も安価に、もしくは無料で、世界中に情報発信ができるこの時代、ネットで自分の名前を叩けば溢れ出る素人さんの書評というのは、一面の見方を示す建設的な意見として、あるいは単なる自己顕示欲の受け皿として、とりあえずは機能していると考える。
 僕にとって特に役に立つのは、好意的な書評だ。
 何にせよ好意的に捉えてもらっているということを確認できるのは、今後の大きな意欲へと繋がっていく。もちろん僕自身の承認欲求も満たされるし(こういう欲求自体は、社会に生きる以上あって当然のものである)、何よりも「好意的に発言したい、読者の方がそう考える程度の水準のものを、僕は書けているのだ」と確認できることは、自分自身の方向性の正しさを了解する上でも重要である。ちなみに、好意的な発言をするよりも、批判的な発言をするほうがはるかにハードルは低い。人は、良い語彙の何十倍もの悪い語彙を持ち合わせる生き物だからである。
 好意的な書評以外は、もちろん批判的な書評となるが、これも役に立つ。
 はっきり言うが、内容は一切見ない。他人が僕の作品のどこが嫌いかなど、考えるだけ無駄だからだ。
 では何が役立つのか。実は、そういう類の書評からは、「この書評を世間に喧伝するに至る人間心理」が透けて見える。これは本当に興味深くて、大抵は先の自己顕示欲、承認欲求に、若干の盲目さとルサンチマンを混ぜあわせたものに過ぎないのだが、時折それ以外の不思議な思惑が混ざっていることもあって、これが大して旨くもない闇鍋に、意外な味を発見したときのような驚きを覚えさせてくれるのだ。そして、こういう屈折した心理こそが、こちらの小説執筆に大いに役立つのである。
 ちなみに、一切何の役にも立たない(これは、僕にとっても、世界にとっても)書評というのも存在する。
 それは、揶揄だけで構成されている書評だ。
 以前「シリーズの終焉に哀愁漂う」的なコメントを頂いたことがある。そう思ってもいないくせに「先生」の敬称で僕を呼ぶ輩もいた。どちらもあからさまな揶揄である。こういう書評には、いや、書評というよりこれこそ「チラシの裏」なのだが、率直に言って書き手を気の毒に感じた。
 なぜなら、読み手がそこから得られるものが何ひとつないからである。
 それこそ、まさに壁に叫ぶような行為であるわけで、その点で他でもない自分自身が揶揄されてしまうのは明白なのだが、傷々しいことに、本人はまったくそのことに気付いていない。きっと、自分自身を客観視する習慣がないのだろう。より可哀想なのは「ああ、子供なんだな」と言えるほどには若くなさそうなことである。若ければ「若気の至り」で済むのに、成人式を経ただろう大人が。まことにいたましいことである。
 話が逸れたが、要するに世間に溢れる書評は、一部を除いて、なんだかんだ僕の役に立っているということである。この点、この場を借りて御礼申し上げる。本当にいつもありがとうございます。
 なお、玄人さんの書評はあまり参考にしていない。なぜなら、彼らも商売だからである。
 お互い商売人なのだから、お互いの領域には土足で踏み込まない。それが大人のルールである。

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