top of page

62 煙草について

 煙草は吸わない。だが、煙草を呑む人に対しては、一定の配慮をしている。
 今の世の中は、煙草を呑むことに対して、それを善悪と結びつけて判断しているように見える。煙草を呑むこと、イコール悪。呑まないこと、イコール善。そんな通念があるから、年を追うごとにたばこ税は少々異常とも思えるほど上がっているのかもしれないが、僕の感覚としては、そのこと自体が奇異に映る。
 本当に、煙草はそこまで悪なのか。
 ちょっと想像力を働かせてみれば容易にわかることだが、世の中は煙草よりも身近で煙草より害のあるものがたくさんある。すぐに思い浮かぶのは酒だ。アルコールの害はおそらくニコチンよりも大きく、厄介である。非合法なもので言うなら、覚醒剤もそうだろう。中毒性を言うのならば、煙草のような直接的なもの以外にも山ほどある。ギャンブル、買い物、そしてインターネット。世の中は中毒で溢れている。
 要するに、世間は害悪で溢れており、単に害があるからの一点で煙草だけを悪者にすることに違和感があると言いたいのだ。
 もっとも、嫌煙家はこう言うだろう。煙草により、まず喫煙者の医療費が掛かることになる。これは経済的損失である。かつ煙は容赦なくばら撒かれるのだから、関係のない第三者に、臭いや副流煙、時には具体的疾病の形で被害を及ぼすこともある。
 そう、そのとおりである。別にそのこと自体を僕は否定していない。嫌煙家の主張も理解できるのだ。
 だが、だからこそ煙草は「嗜好品」に分類されているのだとは言えまいか。嗜好品はあくまでも個人の好みに基づき嗜まれるものであるので、適切な楽しみ方さえしておけば、まったく問題はない、嗜好外にいる人間は、そういう鷹揚さを持つべきではないか。
 この点、確かに昔は問題があった。所かまわず傍若無人にスパスパとやり出す輩、そいつらが撒き散らす煙、灰、そして吸殻。だが現状、その楽しみ方は、概ねきちんと配慮された形で浸透していると思う。公共の場所で煙草を吸う人間はいなくなったし、彼らはむしろ、肩身が狭そうに喫煙所でそっと煙草を愉しんでいるではないか。
 だから僕は、逆に、彼らに配慮している。僕が非喫煙者であることに遠慮している彼らには、「どうぞ」と促している。「僕なら多少の煙は大丈夫ですよ」とも付け加える。そんなとき彼らは、いかにもすまなそうに一本を取り出すと、肩を竦めつつ火を点け、煙を含み、しかしとても満足そうに、周囲に気を遣いながらも紫煙を吐き出すのだ。何とも可愛いではないか。
 関係ないが、こういう「世間が悪と断ずるものなら、何の躊躇いもなく痛めつけられる」性質を、人は誰でも持ち合わせているように見える。煙草だけではない。わざわざ説明するまでもなく、そんな光景はそこかしこに溢れている。
 だからこそ僕は、敢えて「惻隠の情」を持ちたい。感傷的なヒューマニズムから言っているのではない。「もしかすると、いつ自分が痛めつけられる側に立たされるかもわからない」と予測しているからだ。
 煙草は害である、それは今の常識である。だが想像してほしい。ネットは害である、ネット接続する人間はいくら批判しても構わない、それが常識である社会が、近未来には起こらないと、誰が断言できるだろう、と。
 さすがに飛躍だろうか? いや、だからといってこんな社会が絶対に生まれないと誰が言えるだろう?
 そう、これは、ひとえに想像力の問題である。

bottom of page