三文文士・周木律
59 占いについて
占いというものを、基本的には一切信用していない。
信じていないのではない。信用していないのだ。
その心は、少々荒っぽい言い方になるが、占いとは元来、人間の外にあるものから人間の内を炙り出す手法のひとつであり、その意味において、占いとは、そういうものを通じて前向きに物事をとらえられるという効果のみを期待すべきものだからだ。要するに、楽しみはするが振り回されてはならないもの。これが、占いを信じてはいるが一切信用しないということの真意である。
しかし世の中には、占いに全幅の信頼を置いてしまっている人も少なくない。なぜだろうか。
占いのおそろしいところは、「それらしさ」があることだと、僕は考えている。実はすべての占いに当てはまることだが、その根底にあるものはただの「乱数」だ。いつ生まれたかとか、カードは何が出たかとか、賽の目はいくつであったとか、すべては乱数がベースにある。占いをする者は、その乱数を何やら超自然的なオブラートで包んで「それらしさ」を演出する。妙な計算式や惑星の軌道、怪しげな統計学などの「それらしい」プロセスを経て、答えをさも「それらしい」ものとするのだ。もちろん、その「それらしさ」に将来を予測する一切の根拠はないので、仮にも現代に生きる我々であれば、そこは当然のごとくに疑ってかかるべきである。
この点からして、占い師という職業は、まことに言及が難しいものだ。
基本的に、占い師の方々はその多くが大変に有意義な仕事をなさっている。占いという行為を通じて悩みある人と同じ目線に立ち、そのよき水先案内人となるのだ。迷える人々にとっては、とても有意義な存在となろう。
だが一方で、人の心を左右することに嬉々としながら、金を巻き上げる輩がいるのも事実だ。そこまで詐欺的ではなくとも、これは実際に僕がこのように妙な絡まれ方をしているのだが、頼みもしないのに一方的に占われた挙句、この人間は土だから野暮ったく才能がないなどというように、妙に高い位置からの占いをされたことがある。もちろんその方が根拠に置いているのはただの「乱数」であって、そんなあやふやなのものの上に立ってよくそこまで高飛車になれるものだと、逆に感心してしまうくらいだった。念のためもう一度言っておくと、僕は別にその人に占ってくれと頼んでなどいない。勝手に上から目線で占われただけである。
まあ、そういう高飛車さがその方のキャラクターであり、そこに惹かれて恭しく金を差し出してしまう人がいるからこそ、商売が成り立つのだろうな、とは思う。もっとも、そんな生き方がおおよそまっとうなものだとは思わない。乱数から金を生むという意味で、この生き方は博徒と何も変わらないからだ。だから僕としては、そんな方と僕の人生とがこれ以上交わらないよう、ただただ祈るばかりである。
いずれにせよ、占いのこの一種の「うさんくささ」は、このようなごく一部の占い師が醸成しているのだということを、そろそろその他大多数のまっとうな占い師の方々は非難していくべきではないだろうかと思う。繰り返すけれども、占いそのものには罪はないし、メリットもあるのだ。さもなくば、ただただうさんくささだけが増すばかりであろう。
ところで、先日、比叡山延暦寺で一本のおみくじを引いた。これによれば、どうやら僕は大器晩成型であるらしい。
だから僕はその占いを信じている。しかし信用はせず、そのおみくじが示すことが最終的には事実となるよう努力している。
占いとはかくあるべきものだと、僕は考えている。