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56 けなすことについて(2)

 

 前回の続きであり、前回述べた「お子様」とはまた「別の方」の話、なのだが――。
 多少なりとも創作に携わっておられるらしいその彼が、同じく創作する人とその作品を酷くけなしているのを、僕はしばしば目にする。当然のことながら、その対象には僕も含まれている。
 けなしの対象に自分が含まれているという腹立ちはさておいても、これまた僕の行動様式にはないことなので、なぜそんなことをするのかといつも目を疑うのだが、現にそういう人がいる以上、その人にはその人なりの心境があるのは間違いない。ということで、再びこれがどういうものなのか、前回同様、少し分析してみた。
 そもそも、当然のことなのだけれど、僕自身が他の創作する人、創作物をけなす気にはまずならない。
 理由は単純だ。僕には、僕同様に創作している人の気持ちというのがよくわかるからである。けなされた僕は、やめてくれ、頼むからけなさないでくれ、と思う。だから僕もけなさない。人の嫌がることはしないのだ。人の嫌がることをするのならばそれはいじめであり、やる人間は子供じみた大人か子どもかのいずれかである。
 ところで、冒頭述べたように、同じ創作者でありながら、平然と他の創作者をけなす彼の心境とはどんなものだろう。やはり、いじめなのだろうか。いや、これはどうやら、いじめというのとは違うマインドのようだ。
 具体的に示す。
 彼は、まず極めて辛辣な小説批判者である。よいものはよいと言い、だめなものはだめと言う。その口ぶりは時に真摯だが、時に悪辣であり、言葉の中に含まれる揶揄、嘲笑の類に、被批判者すなわち作者は間違いなく叩きのめされる。
 もちろん、以前から繰り返し申し述べているように、それは批判者の自由である。被批判者たる作者はその批判を受け入れるべき立場にあり、ある意味では著作を購入していただいた代金の対価としてこれら批判を受忍しなければならない。少なくとも、真っ向から異議を唱えることは難しく、せいぜいが、頼みますからもう少しお手柔らかにと懇願するのが関の山だ。批判者たるその人が、あくまでも自由の範囲内で批判を行う限り、無辜の被批判者にとってはもうどうしようもないのである。
 だがここに、また別の事情がある。実はその批判者たる彼が、具体的な創作活動を行う、創作者でもあるのだ。
 そのことを知って、僕はえらく驚いた。創作者でありながら、同じ創作者をそこまで批判できるその心情とは、一体どういうものなのかしら、と。
 まずこう考えた。彼はきっと、実際は真面目に創作を行っていないのだろう。アマチュアがプロにやいのやいの言うのは、場末の飲み屋で管を巻くようなもので、別に人の道を外れたことをしているわけでもない。それだったら別に構わないし、多少やかましく聞こえたところで、まだ理解もできる。
 ところが、である。その彼はどうやら、かなり真面目に創作活動を行っているらしい。
 実際、彼はある賞に応募なさったようであった。商業作家になる意気込みがあったのだ。だが最終選考に進むことなく、あえなく落選した。よくあることだ。だが次に彼が何をしたかといえば、その落選作を自主出版された。いわゆるセルフパブリッシングというやつである。しかも0円ではない。定価を付けて、売りに出したのだ。
 僕の定義でいけば、プロは自分の仕事に価値を付ける。落選してもなおこれは価値があるものと自らみなしているのならば、これは少なくとも自分をプロとしている証。少なくとも彼は、自分をプロの創作者として位置付けているのである。
 と、ここではたと思う。にもかかわらず、なぜこのプロの創作者たる彼は、それでも平然と他の創作者をけなせるのだろうか、と。
 その心を知りたくて、僕は彼の創作物をいくばくかの金銭を払い、読んでみた。
 そして理解できた。ああ、なるほど、そういうことか、と。
 何が、なるほどそういうことなのか、その詳細は述べない。だが、想像していただきたいのは、やはり同じ創作者でありながら、平然と他の創作者をけなせる類の方というのは、まっとうな創作者にはなれないだけの理由が、その創作物から滲み出てしまうということである。
 具体的には彼の名誉もあるので言えないが、要するに、「自分自身を客観視できていない」ということがはっきりとわかってしまうということである。
 確かに彼は、優秀で有能な批判者として、他人を分析する能力には長けているようだった。だが、翻って自分がどういう者かということについては、残念ながら等身大で判断できているとは言い難いのである。
 作品にも、それがありありと滲み出てしまっている。作品が最終選考に進まなかった理由もそこにあろう。にもかかわらず彼は、わざわざその落選作を自主出版に回してしまった。もし僕ならば、恥ずかしくてお蔵入りさせるのだが、彼には、それがなぜ落選したか、今もなお理解できないままでいる。残念なことだが、等身大の自分と向き合い、客観的に自分を見つめない限り、彼が落選の理由を理解することは今後もないだろう。少なくとも、平然と他人をけなせてしまえる限り、その日は決してやって来ない。
 だから僕は、彼に――いや、同じ創作者でありながら、平然と他の創作者をけなす人々すべてに、一言だけ申し述べたいのだ。
 それは「本当に勿体ない」と。
 今すぐにでも気付いてほしいのだ。それはとても、勿体ないことなのだと。
 なぜならば、ただそれだけのことで、あなたにある素晴らしい才能が、自意識の奥に埋もれてしまうからである。
 つくづく思う。他の創作物をけなす労力と情熱を、そのまま、自分を見つめることに割き、自分の次の創作エネルギーへと転化したらいいのにと。そうすれば、作品もあなたも輝きを増すのにと。
 まことに、残念である。

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