三文文士・周木律
55 けなすことについて
僕の小説を「面白くない」「才能がない」「酷い」「いい加減にしろ」などと、けちょんけちょんにけなした挙句、しかし僕の書いたものを片っ端から読んでいる、という不思議な方がおられる。
不思議というか、凄い、あるいは奇特というべきか。
別に揶揄しているのではない。実に興味深いことだと、心から思っているだけである。
というのも、僕の中にはそういう行動パターンがないからだ。
小説というのは、物語全般がそうだろうと思うが、肌に合うか合わないかという類のものだ。だから、さまざまな評価があって然るべきだし、僕は自分の小説がいい評価を貰えないことが多いと自覚しているから――もちろん、だから褒められることはないという意味ではなく、面白がってくれる方もいらっしゃるので、その方には本当にありがたいと感謝している――けなされることそれ自体は、もう仕方のないことだと思っている。
だが、けなしにけなしまくった挙句、それでも僕の著作物を読みまくるというのは、一体どういう心理なのだろう?
僕は、合わないなと思う物語、作家さんの本は、それ以降はあまり読まないことのほうが多い。もちろん、だから別にけなしたりもしない。理由は先刻のとおり、本には合う合わないしかないので、その必要がないからだ。強いて言えば、合わないということがわかれば、それ以降はあまり手を出さない――決して読まないということではない――というだけのこと。それだけだ。
だから、特定の本、作家を、酷くけなす、その旨を喧伝する、にもかかわらずそれでも続けて読む、その奇特な行動パターンの動機が一体どこにあるのか、不思議でならないのだ。
とはいえ、わからないならわからないなりに考えてみるのだが、もしかするとその動機とやらはいくつかの類型に整理できるのではないか。
例えば、けなす行為そのものが娯楽なのではないか。人間は誰かを見下すと快感を覚えるようにできている。だが身近にいる人をおいそれと見下し、しかもその感情を顕わにすることはできない。だから周木律という会ったことも話したこともない人物を、ただその小説が気に入らないという理由で見下すのである。
または、けなす行為を喧伝することが、当人の自己顕示欲を満たすということなのかもしれない。どうだ、ぼくはこんなに周木律が嫌いなんだぞ、周木律の小説のいかにクソなことか。みんなもそう思うでしょう? どこがどう満足につながるのかはよくわからないが、そういう言い方をする人は、自己顕示欲が満たされているからか、集団の中で実に気持ちよさそうにしていることが多いから、実際満足しているのだろう。
もうひとつ、義務感にかられているという考え方もある。なんだかよくわからないが、当人は周木律という人物をけなすことを半ば義務化しているのだ。であればこそ、読みたくもない著作をお金と時間を浪費してまでわざわざ読むという行為も理解できる。それはその人にとって義務なのだ。なぜそれが義務なのかはよくわからないが、「周木律などというぼくの嫌いな人間の書いたものをみんなに読ませるわけにはいかない!」ということなのだろう。
いずれにせよ僕には理解できないし、したくもないのだが、少なくともその人は「ぼくはそうおもうんだ!」と強く思っているのだから、その意志は尊重する。とりあえず。
ところで、ここまで書いて上記の類型が、あるひとつの行動と強くかかわりがあるということに気付いた。
その行動とは、いじめである。
いじめをする人間は大抵、なぜ君はいじめをするのかと問うと、色々と滑稽な理由を述べるものだ。例えばいじめは楽しいから。またはいじめをすることは集団で自分の地位を固める手段となるから。さらには、いじめられるような奴を疎外するのは義務だから。
すべて、上記の類型と合致するのだ。なるほど、その人の心理はいじめと同様のものだったのである。
いい歳の大人がいじめだなんて、なんて子供じみているのだろうか――そう思われるかもしれないが、残念ながら社会には、子供じみた大人など山ほどいるものである。
もっとも、僕は、この人が子供じみた大人だなどとは思ってはいない。この人は、もっと前の段階にいる。
すなわち、子供なのだ。
だから平気で人をいじめる心理になるし、言葉づかいが妙に荒っぽく、下品なハンドルネームを使いさえ――まだ肛門期さえ抜けていないのだ――するのだ。
僕は思う。ああ、この子はまだ子供なのだな――ならば仕方がない。子供には子供なりに、理を説くまでだ。
というわけで――。
ぼくの本をよんで、平きでけなし(けなすとは、わる口を言うことです)、それをクラスのみんなに言って回っている、きみへ。
ぼくは、おこってはいません。なぜなら、ぼくの本は、きみにとって、おもしろくないからです。おもしろくないのでは、しかたがない。ぼくはそう考えているのです。
でも、だからと言って、きみのしていることも、けっして正しいことだとは、言えません。
ですから、こうしませんか。ぼくは、まいにちど力をして、きみがおもしろいと言えるようなものを、いつかきっと書きます。きみも、人をけなすのはやめて、まえむきな人生をおくってください。
そうすればきっと、いいことがありますよ!