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52 おみくじについて


 大晦日、帰省した実家で紅白歌合戦を見て、行く年来る年を見て、年が変わったら、その勢いで近所の神社にお参りに行くのが、毎年の習わしだ。
 今年始めのお参りでは、少し面白いことがあった。
 行列、といっても高々十五分程度のものだが、その先にあるご神体の前で御賽銭を投げ、二礼二拍手一礼を済ませたら、必ずおみくじを引く。
 僕はおみくじでほとんど「大吉」を引けた試しがない。だいたい「吉」「末吉」だ。凶を出すこともままある。七年ほど前に清水寺で引いたおみくじは「凶」だった。その年は本当に凶事があったのだが、そのことについてはまた別の機会に書くこととする。
 一方、家族はどういうわけか、絶対に「大吉」しか引かない。不思議なくらい、毎年「大吉」である。しかも、必ず「目上の人間の引き立てがある」旨のことが書かれている。当人は確かに、上の人の覚えがよく、引き立てを頂いているので、これは驚くほどに的中しているのだが、今年のおみくじにももちろんその趣旨の教示があり驚いていると、突然、こんなことを言いだした。
「あれ、ピアス、どこいったんだろ」
 耳を見ると、確かにピアスが片方ない。
 落としたのかな、ときょろきょろ辺りを探すが、見当たらない。深夜のことなので光がなく、探しづらいのだ。
 それでもしばらく家族で探していると、それに気付いた周囲の方々に「どうしたのですか?」と声を掛けていただいた。
「いえ、ちょっと落とし物を」「なんですか」「ピアスです」「ピアスですか、それはお困りですね、どんなものです」「ええと、その、ダイヤモンドの……」「ダイヤモンドですって!」世界で最も高い硬度を持つ物質は、途端に人々をざわつかせた。

 確かにダイヤモンドのピアスだった。もっとも、庶民でも普通に買える程度のものだ。

 だから、しまったと思いつつ「いえその、安物なんですけど」と述べたのだが、もはや遅かった。ダイヤモンド? そりゃ大変! とばかりに、人々がすぐ数十人単位で神社の石畳に目を凝らし「皆で探せ!」とピアスを探し始めたのだ。
 嬉しいやら、迷惑を掛けて恐縮するやら、しかし、未だに人情ってあるんだなあ、と感心しつつ、僕もまたピアス探しに加わったのである。
 結果として、皆で十五分ほど探したのだが、ピアスは見つからなかった。
 皆さんにお礼を述べ、神社の巫女さんにもし見つかった場合の連絡先を告げると、落胆する当人を慰めながら、帰途に就いた。
 家に戻り、ふと思い出した。「そういえば、おみくじに何て書いてあった?」
「何って?」
「失せものだよ。大体おみくじには失せものについて書いてあるでしょう」
「あ」がさごそと、おみくじ――もちろん「大吉」である――を取り出した。
「……ええと、『物の間にある』って書いてある」
「物の間か。もしかして、部屋のどこかにあるんじゃない? 着替えている間に落ちたとか」
「うーん、そうなのかなあ。でも、さっきよく探してみたんだけれど」
「神様が言うのだから、もう一度探してみたら?」
「……うん、じゃあ、だめ元で探してみる」
 ――あった。
 畳んでいた布団の枕と敷布団の隙間に、転がっていたのだ。
「神様って、すごいね」
 まったくだ。げに恐ろしきは神のお告げ。高々百数十枚の、テンプレートなおみくじであっても、神様はその中から、適切な一枚を確かに選ばせたのである。
 信仰するというほどの真面目な信仰者ではないが、これからはそっと、よい時も悪い時も心の中で手を合わせる慎ましやかな生活を送ろう――そう思ったとき、はたと気付いた。
「……僕の人生は、基本『吉』『末吉』『ときどき凶』なのかしら」
 まあ、それならそれで、構わないのだけれど。

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