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51 原稿について


「原稿する」などという文法的にはおかしい言葉づかいが罷り通ってしまうほど、原稿を仕上げるという作業は、しんどい。
 こればかりは、長編だろうが短編だろうが、とにかくひとつの作品を形にするため原稿に立ち向かい、かつ完成させた者にしかわからない苦行である。
 僕もつい5年ほど前までは、本屋で立ち読みしながら、ふと手にした一冊を流し読みし、気に入ったものがあれば買い、そうでもなさそうならそっと棚に戻すということを繰り返してきた一読者でしかなく、かつ小説を書こうとも考えていなかったのであるから、その棚に並び平らに積まれた本の一冊一冊ににどれほどの情熱や怨念が込められているのかなど、想像もしていなかった。
 と、ここまで読まれた方は、「原稿を書く」=「ひとつの作品を書き上げる」だと考えているに違いない。
 すなわち、文章の最初の一文字から取り掛かり、紆余曲折を経て、最後の一文字を書き終えるまでの、そのプロセスが「原稿を書く」だと思われているだろう。
 しかし、その認識は実は半分正しく、半分間違っている。
 というのも、狭義の「原稿」とは確かに原稿用紙に書き落された十余万字なのだけれども、広義の「原稿」はその最初の一文字を書くための下準備から、最後の一文字を記した後で本屋に並ぶレベルにブラッシュアップするための、一連のプロセスも含んでいるからである。
 例えば、狭義の原稿に取り掛かるまでの間に、通常は「プロット作成」という作業が入る。プロットとは、これから書こうとしている話がどういうストーリーを持ち、どういうオチで終わり、そもそも何を伝えたい話なのか、要するに「あらすじ」だ。だが、単なる自分の覚え書きではない。
 プロットは、そのまま「編集者への企画書」の意味合いを持っているのだ。
 要するに「こんな話ありますけどどうです?」と相談するための叩き台であり、プレゼンなのだ。したがって、プロットを仕上げてもNGが出されることは多々ある。ほとんどの小説家は、まずこのプロット作成とそれに対してOKを貰うために苦心する。これは物語を書くという以前の労苦であって、その困難さゆえに挫折する人も多くいると聞く。よく、一作だけを書かれて、そのまま次作が出ない作家さんがいらっしゃるが、多くはこの壁で苦しんでいるのではないだろうか。
 さて、苦労して書き上げたプロットに首尾よくOKを貰えれば、ようやく狭義の原稿作成だ。だが、これこそまさに忍耐の作業である。たとえ1日5千字を書いたところで、その作業を1か月継続しなければ、長編は書きあがらない。短編でも、1週間はかかる。なお、5千字ぐらい軽い、軽いと思われるかもしれないが、これはだいたい新聞一面の文字数と同じくらいの分量だ。それだけのものを頭の中からひり出すのに苦労がないと言い放てるとしたら、それはきっと、大したものではないのだと思う。
 かくして、長い苦難の日々を乗り越え、ようやく狭義の原稿を仕上げることができた。
 やった、これで終わりだ! ――そんな美味しい話はない。むしろ勝負はここからである。
 書き上げた可愛い原稿を編集者に送る。しばらくして編集者から帰って来るのは、長いダメ出しである。もちろんお褒めの言葉も入るが、社交辞令であり真に受けるわけにはいかない。そうして落ち込んだところに、改稿の依頼が入る。編集者にもよると思われるが、少なくとも十か所、多ければ何十か所もの指摘が入る。指摘には軽重があり、「あの表現はこうしましょう」という程度のものならよいが、「もうひとり登場人物を増やしましょう」とか「このオチ、もう一捻りできませんか」となれば、これはもう修正というレベルではなくなる。
 いずれにせよ、泣きながら原稿に再び手を入れる。もちろん、辻褄合わせを考えながらの修正であり、一筋縄ではいかず、トータルでも十日ほど要する。本当に、血反吐を吐くほどの苦しい作業だが、経験上、修正はしておいて後からよかったと思えたことのほうが多いから、絶対に必要な作業なのだろう。
 こうして、改稿を終える。編集者に渡す。再改稿、再々改稿という無間地獄もあるがそれは割愛するとして、無事編集者最終OKが出ると、ようやく完成――では、もちろんない。ある意味ではさらにしんどい作業、「校正」が始まるからである。
 校正とは、その道のプロの方が――これは本当に尊敬すべきプロの仕事人だ――文章のてにをは、言葉づかい、表記ゆれから、整合性等々に至るまで、びっくりするくらい丁寧にかつ事細かに調べ上げ、「これで本当にいいですか?」と作者に確認する作業のことだ。
 もちろん作者は、それがOKか、NGか、NGならばどう修正するかを、ゲラに赤ペンで書きこんでいかなければならないのだが、これまた過酷な作業である。「この方は8ページ前ですでに死んでいますがOK?」とか、「この地方ではこの時期に雪が降ることは稀ですがOK?」とか、「この推理では別の可能性が導かれますがOK?」とか、厳しい指摘にその都度うんうんと唸りながら修正をしていくのである。ちなみにこの校正作業は2回あり、それぞれ「初校」「再校」と呼ばれている。
 この頃になると、作者のマインドはぼろぼろである。吐ける血反吐もないほどだ。だが、再校までを終えれば、ようやく本にできる。それだけを心の支えに、最後の力を振り絞るのである。
 そして、本が出版され、本屋に並ぶのである。どうです、長いでしょう?
 とは言ったものの、読まれている方は、もしかしたらぴんとこないかもしれないので、定量的に、実際に要する時間の目安についてお知らせすると、例えば、アマチュアのあなたが長編ひとつを仕上げるのに掛かる日数があるとする。これをXとしよう。それを3倍した日数3Xが、最終的に本になるまでにかかるおおよその時間だと考えていただければいいと思う。もし現状、長編を1年かけてじっくりと書きます、というアマチュアの方がおられれば、それは商業ベースで3年かかる覚悟をしておいたほうがいいということである。
 ちなみに僕は1日5千字をノルマとしているので、長編ひとつを狭義の原稿とするのには約1か月が掛かる。だが結局、上記諸々の手間があるため、どうしても3か月くらいは掛かってしまうのだ。現状年4作のペースで刊行しているのは、そのためである。
 それにしても、つくづく不思議に思うのは、どうして僕はこんなしんどいことを、デビュー以来続けているのだろうかということだ。
 ただでさえ本業もある中でこういう作業をするのは、まったくの苦行である。土日は原稿を書いているし、休暇もパソコンを手放すことができず、観光地にレジャーに行っても、夜は原稿を書いている。
 にもかかわらず小説を書いているのは、きっと、小説を書くことがことのほか好きだからなのだろう。
 いずれ需要も依頼もなくなり、周木律という三文文士がただただ忘れられていくだけの存在になる日が来るだろう。それでも僕は、小説を書いていると思う。誰も読まないことが確定している物語を、誰のためでもなく、ひたすら自分だけのために書いているに違いない。
 とはいえ、所詮、小説家の執筆動機なんてそんなものである。だが、そういう動機でもなければ、小説家という忍耐の職業が務まらないのもまた、事実なのだ。

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