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45 文句について


 不平不満があるときに文句を言う。これは極めて普遍的な行為である。
 人は何かが自分の思い通りにならないとき、例えば誰かが思った通りに動いてくれないとか、自分が思い描いていた期待に見合うだけの快楽が得られなかったとか、とにかく己が望む通りにならなかったとき、大きなストレスを感じる生き物である。このストレスを解消するために、人はさまざまな代償行動に出る。物に当たるとか、ふて寝するとか、激しく運動するとか、何かの創造を始めるとか。
 これら代償行動の中で最もポピュラーであり、かつ凡人的な行為が、文句を言うことである。
 いつでもどこでもできる手軽さ。とりあえず言いっぱなしでも大した後始末が必要のない無責任さ。それでいて一応ストレスは解消できるという高い効果。別に揶揄しているのではなく、この行為はそれだけ普通のことなのだと言いたいだけだ。
 しかし、率直に申し上げれば、いい大人があまり文句を言うものではないかな、と思う。
 なぜなら、文句を言うとき、だいたいはそれを受け止めるカウンターパートが必要になるからである。
 大空に向かって文句を言ってあースッキリ、という珍しいケースもあるが、ほとんどの文句はそれを聞いてくれる相手が用意されて初めて吐かれるものだ。この相手は、文句の直接の対象であることもあれば、単に文句の受け止めてでのみあることもある。前者を喧嘩といい、後者を愚痴というが、ある意味で文句を直接相手にぶつける喧嘩は創造的行為に近しい場合もあるから、以後の論の対象からは外す。
 さて、再言及すると、文句はあまり言わない方がいい、なぜならそれを受け止めてくれる人が必要だからだ、なのだが、言い換えればこれは、文句を言うという行為は、別にストレスの総量を減少させるものではなく、ストレスを他人に撒き散らし分散しているというだけの無意味な行為なので止めた方がいい、ということである。
 要するにこれは、ただの迷惑行為なのだ。
 一例を挙げる。「最近の若者はノミニュケーションもしねえんだ、なっちゃいねえな、がはは」などと宣う上司。

 僕は思う。当然だ。飲み屋で管を巻く上司は、自分は気持ちがいいかもしれないが、その管に巻かれる部下はただただストレスでしかない。ノミニュケーションしてもらいたければ、上司が十分に部下に気を遣わなければならないのだ。いわんやストレスに無辜の他人を巻き込むなど、言語道断である。
 したがって、小中高生大学生のような、まだまだ「子供」の範疇にいる人間ならともかく、いみじくも社会の荒波に出てその中をきちんと泳ぐ立派な大人であるならば、自分のストレスをきちんと消化することにも、そのストレスを人に撒き散らさないことにも、配慮しなければならない。口を手で覆わず馬鹿みたいな大くしゃみをする下品な輩になってはいけないのだ。
 ――さて。
 ここまで書いて、実は僕にこういう批判があることを思いついた。「そう言う周木サンですけど、そうやって自分が文句言ってることはどういうことなんです?」

 それって、周木サンが大人じゃないから? 配慮できないから? 下品な輩だから? 
 ギクリ、一瞬図星かと肝が冷えたが、いやいやこれは反論できると気付いた。
 さっきから僕は、自分のストレスを撒き散らして人のストレスに転嫁するのは人としてどうなんでしょうか、ということを述べているのです。
 一方僕のストレスは、確かにこうして人に撒き散らしてはおりますが、それが不快ではないように可能な限り配慮しています。なぜなら、そうすれば、僕のストレスは誰かのエンターテイメントとして昇華されるからです。それならばいいじゃないですか。
 ――と考えてまたすぐ気付いた。いや、よくない。よく考えたらそれって結局、僕にストレスが帰って来るだけじゃないか、と。だったら相手のことなんか考えずに文句言った方が精神衛生上いいに決まっている。
 と、いうわけで。

 僕も自分自身「大人げないなー」と思いつつ、普通に文句を言うこととしましたので、よろしくお願いいたします。

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