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41 大学生について

 

 大学生というのは、実に生意気だ。
 社会を知りもしないのに社会を語る。税金を納めてもいないのに政治を語る。手前で一銭のゼニも稼いじゃいないのに仕事を語る。学費を納めて勉強させてもらっている立場の癖して、さも一人前ででもあるかのような一端の口を利きやがる。まったく、どうしようもない存在だ。
 だが、それでいいと思っている。なぜなら僕も、かつてそういう糞生意気な大学生だったからである。
 知っている人は身をもって知っていると思うが、世の中には、本音と建前というものが存在している。
 そんなもんないに越したことはないのだが、残念ながらすべての物体の表には必ず裏があるように、本音と建前とは表裏一体のものとして存在する。
 もちろん、社会もまたこのダブルスタンダードに則って動いている。表向きのセレモニーとして動く世界と、裏向きの実利を取る観点から動く世界が共存し動いているのだ。逆に言えば、それが社会のルールであると言える。

 一例を挙げる。二国の元首、日本の首相とアメリカの大統領が会談する場面を考えてみる。実際のところ、会談で何を合意するかはほとんど事前に決まっている。そんなものは事務方が会談の日までにきっちり双方相手方と交渉し、詳細を詰めているのだ。だが、それを「トップが決め合った」という外形はセレモニーとして必要である。だからわざわざ政府専用機に乗って顔を合わせて会談するのだ。
 もちろん、トップ会談するものの交渉決裂という場合もある。しかしこの場合であっても、事務方ではあらかじめそのストーリーを了承している。そこさえも織り込み済みで会談に臨むのだ。これはいわば出来レースなわけだが、大事なのは「トップが顔を合わせるも交渉決裂」というセレモニーを作ることなので、これでいいのである。
 こういったプロセスは、ほとんどの組織でもきちんと踏まれている。なぜなら、組織というのはそういうものだからだ。人があやふやに結合しているだけの組織で物事を動かそうと思うならば、そういう表の一手と裏の一手が、それぞれ必ず必要になるのである。
 翻って、大学生だ。
 大学生は、なんでか知らないがこの裏の一手の存在をやたらに嫌う。「それは理屈に合わない」「理に適っていない」というのが彼らの常套句である。確かに正論や理想論だけで論ずるならば、あるいは「人」単体を相手にするだけならば、彼らの言うことも一面正しい。しかし我々が相手にしているのは、もう少し複雑な「人々」の結合体である。人々を相手にするとき、そんな真っ直ぐで単純な言葉だけで説き伏せることはできないのだ。
 しかし、このことをいくら説明しても、彼らにはそれがわからない。そういうものを相手にしたことがないからだ。
 だから大学生は口々に言うのだ。「社会人になると自由がなくなる」とか「社会は汚い」とか「白黒ハッキリしないから嫌だ」とか。あまつさえそれを正義と位置付けて鬱陶しいほどに主張してくることさえある。
 悪いが、一喝する。馬鹿者、それが社会なのだ。法学部だから法律がわかっていると思うな、社会学を専攻しているから世の中をわかっていると思うな。君たちが学んでいるものは、単なる基礎知識であって、断じて世の中を動かしているものではないのである。
 だが、誤解なきように言うと、実はこういう大学生が、僕は大好きだ。なぜなら、もう一度言うが僕も、かつてそういう糞生意気な大学生だったからだ。
 生意気に一端の口を利いていた大学生ほど、社会に出て現実に直面しへこまされる。もちろん僕もそのひとりだったから、その気持ちはよくわかる。抱いてきた理想と目の前にある現実のギャップに悩まされるのだ。だが、かようにへこまされ、ジレンマに対峙することで、初めてわかることというのも確かにあり、結果的にはこれを通じて社会と自分との折り合いをつけて成長していくことになるのだ。
 その意味で、実は生意気であるというのは、活きがいいということと同じなのだ。
 そして最近、こういう活きのいい新人が増えてきたように感じている。ゆとり教育世代云々と、ほかの世代からいわれのない誹謗中傷に曝されてはいるが、それだけ「自分」を信じられる子が多い世代なのだろうと思う。
 こうして今年も活きのいい新人がたくさん社会に出て、叩かれ、よい社会人となっていくのだ。

 実に、いい傾向である。

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