三文文士・周木律
40 怒りについて
担当の編集者から、ふとした際に、「周木さんって、怒ることあるんですか」と問われた。
「もちろんありますよ」
「でも、穏やかですよね。怒ったのを見たことがありませんよ」
「そりゃあ、仕事ですからね、怒るところなんか見せたりしませんよ」
「本当ですか」
「本当ですよ」そう答えながら、なぜ疑うのかと頭に来ていた。
当然のことをなぜ聞くのか。僕も人間であるからには、人並みに怒るのは当たり前のことである。
というか、はっきり言ってしまうが、温厚どころか、誰よりも怒りっぽい側の人間だと自負しているくらいだ。実は父親の系統は三代以上下町に住んだ、いわゆる江戸っ子である。僕もその血を受け継ぎ、喧嘩っ早く、ついでに言えば宵越しの金もあまり持てないありさまである。てやんでい、こんちくしょう。
そんな僕なのだが、編集者に指摘されたように、仕事をする上で人から「怒りっぽい」という評価を受けたことはない。
当然である。怒るわけがない。なぜなら仕事を進めるときに、あからさまに怒ることによるメリットなどひとつもないからだ。
つまり僕は、仕事するためのスタイルとして、怒りを抑え、あえて温厚な人間を演じているのである。
裏を返せば、僕の内心はいつも怒りに満ちているのだ。
これまた当然である。なぜなら物事というのはどいつもこいつも、僕の思い通りに動きやしないのだから。
ところで、怒りには二種類がある。納得できる怒りと納得できない怒りだ。
納得できる怒りとは、腹立たしいが理解はできるという種類のものだ。例えば電車の中で子供が騒いでいる。うるせえぞと腹が立つが、しかし理解はできる。だって子供だもの。子供ははしゃぐのが仕事なのだ。仕方がないではないか。あるいは僕の著作に対する直接の評価もそうだ。「周木さんの本、読みましたよ。よくあれだけ書けますよね。でもあれ、なんていうんですかね、ちょっと私には難しかったかなー」むかっ腹が立つ。つまんなかったとはっきり言ったらどうだのだ。だが理解はできる。だって実際つまんなかったんだもの。そう思ってしまう内心に、僕は立ち入れないのだ。
こう書けば、逆に納得できない怒りとはどういうものかはすぐにわかるだろう。例えばそのひとつのカテゴリは犯罪行為だ。いい大人が近所迷惑を顧みず騒いでいる。迷惑防止条例違反である。僕の著作が公の場で悪しざまにこき下ろされている。営業妨害である。どちらも犯罪であり、僕の理解を超えた行為であり、だからこれに対する怒りには、微塵も納得できないのだ。
とはいえ、いずれにせよ僕はそれらの怒りを表面に出すことはない。なぜなら僕は、いい大人だからです。
だが、知っておいていただきたいのは、納得できなかった怒りについて、恨みを忘れたわけではないということだ。機会あらばその雪辱を晴らさんと、僕は日々そのチャンスを虎視眈々と狙っている。なぜなら僕は、やはり悪い大人だからです。
「周木さんが本当に怒ったら、怖そうですね」
「そうですねえ、ははは」
残念だが、こういうやり取りの中で、僕はもう怒っているのだ。
心当たりのある方は、是非、今後の仕返しに戦々恐々としていただきたく思う。