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34 春について


 春になると死にたくなる。
 寒い季節を超えて、コートを着なくてもよくなり、薄手の服装で、花が咲きちょうちょが舞い始めた道をぶらぶらと、柔らかな日差しを浴びて歩いていると、「ああ、死ぬなら今かな」などと思ってしまうのだ。これはつまり、絶望で死にたくなるというわけではなく、息を引き取るならば最高のシチュエーションなので、自らそのシチュエーションを選んでしまいたくなる、ということである。
 だからもちろん、実際に死のうとは思わないのだけれど、一方では、だからこそ死ぬなら春がいいな、と思う。
 自分の死に方、ということについて、若い頃はあまり意識することはなかった。
 だがそこを過ぎ、社会的には中堅に位置づけられるようになってくると、おのずから自分の行先、すなわち壮年が視野に入ってくる。壮年が見えてくれば、その向こうに見え隠れする老境も意識するようになる。こうして、自分もほかのすべての人々と同様、いつかは必ず死ぬのだということと、その際に自分はどうありたいかということが、意識されてくるわけである。
 話は逸れるが、時々僕たちは無意識に老人を迫害していることがある。純粋な老婆心を「老害」といって退けることもあるし、年金ひとつ取ってみても「貰い得」などといって非難する。もちろん老人に非はない。悪いのは制度なのだが、その制度でさえ、老人が数にモノを言わせて作り維持しているものだと責め立てる。だが思い出さなければならない。僕たちもいつか老人になって、死ぬのだ。
 「子供叱るな来た道だ、老いを笑うな行く道だ」という言葉のとおり、世代の違いというものを、不変の属性のように思ってはならないと思う。ゆとりと笑っても自分が十分にゆとっていた時代がある。老害と笑ってもいずれは自分が老害になる時代がくるのだ。
 春になると、自分の行く末について思いを馳せるが、そのとき僕はいつもそうやって自分を顧み、いずれくる僕らの世代の老境において、それでもすべての世代が健やかにあるためには今何をすればいいかを、しみじみ考えるのである。

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