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31 文章修業について


 文章修業するには、名文を書き写したり、音読したりするといいらしい。
 本当かな、と思う。模倣は大事だし、絵の世界でもまずは立体を紙の上に移すというトレーニングをするから一定の意味はあるのかもしれない。文学の世界ならば、名文と言われるもののリズムをそれによって体で覚えるということも大事なのかもしれない。だが、娯楽小説の類で、果たしてそれが意味のある修行になるのかどうかは、正直疑問である。
 僕は、文章修業と呼ばれるものの類は、少なくとも文そのものを突き詰めるという形では一切していない。だから僕の文はあまり美しくない。「○○○」と誰それが言った。僕は×××と思った。という小学生のような文章を平気で使っている。きっと読むほうも、小学生みたいな文章だなと思っているだろう。でもそれでいい。僕の小説は文章を楽しむというより、ストーリーを追ってもらうものだからだ。
 この、ストーリーを追う小説の世界では、あまり文章のひとつひとつにこだわっても仕方がない。もちろん、エンターテイメントかつ名文という小説はいくらでもある。しかし、僕には残念ながらそこまでの才能はない。悪文ばかりとなろうとも文章の部分は割り切って書くしかないのだ。その分、何が起こっているか、今どういう状況にあるか、誰が何をどう考えているかは、文章そのもののクオリティを度外視してでも、きちんと書くようにしている。もちろん、意図的にそこを省く場合は別にしてだが。
 その意味で、文章修行者をしていた時代、つまり投稿者のころにやっていたことは、あながち間違ってはいなかったのではないかと考えている。
 投稿者時代、僕はたくさんの長編小説を書き、応募した。そのうちのいくつかのものは、後でリメイクすることになったものの、大半はボツになっている。残念だが、それでいいと思っている。なぜなら、いずれも修行を兼ねて書いた側面があるからだ。
 僕は小説家は下請稼業だと考えていた。とすれば、将来的に小説家になるならば、都度ある一定の期間で、一定の分量のものを書かなければならなくなる。ならば今、僕は何をトレーニングしておけばいいのか。僕は一定の期間、たとえば十日、一か月、二か月という期間と、分量、たとえば四百枚、六百枚、八百枚という枚数を設定し、これにぴったり合うような小説を書くことにした。投稿者時代に書いていた小説は投稿しなかったものを合わせて十本を超えるが、最初のものを除いてはすべてこういったしばりを自分に課している。
 結果的に、このトレーニングが今、役に立っている。
 編集者から仕事の依頼を受けると、たいていは分量と締切が定められる。実はかなりゆるゆるではあるが、一定の枠があることには変わらないので、これに向けて計画を組み、書いていくことになる。ここでトレーニングしていた経験が生きる。あらかじめ、自分の執筆ペースを、つまづくことも含めてある程度把握できているので、執筆の進捗がきっちり読めるのだ。これも、文章修業のひとつの成果ではあろうと考えている。
 僕の文章修業のあり方が一般的に正しいかどうかはわからない。少なくとも万人にお勧めできるものではない。もしかすると、名文を書き写したり、音読したりするのが、やはり一般的な修行なのかもしれない。だが、自分にとっては、こういった方法こそが、今とても役に立っていることは間違いないのである。

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