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28 文芸について

 

 文芸は終わった、などという言い回しを聞いたのだけれど、本当ですか。
 僕は、文芸は終わってなどいないと考えているんですが。
 いや、僕ごときが文芸を語るな、と言われそうだが、あくまでも文芸を消費する側として客観的に見るならば、文芸は別に終わったということはないように思われる。規模が小さくなったり、媒体が紙だけではなくなったりはしていると思うが、文芸はまだまだ盛んではないか。ネットを見れば文章に溢れているし、誰もがそれを読み、何かを書いている。結局、文章には以前とそう変わらない程度に需要があるのだ。みんな、何かを読んで、何かを得たいのである。
 なのに終わった、などという言い回しがなぜ生まれるのか。
 そもそも誰がそんなことを言いだしたのか。犯人捜しをすれば、まず「終わった」と言えるのは、以前との状況比較ができる者に限られるだろう。とすれば、ある程度年がいった人間だということになる。とはいえ四十を超えると変化にさえ鈍感になるから、言っているのはその手前辺り、つまり三十後半くらいだということになる。世代で言えば氷河期世代だ。
 確かに、彼らの少年期と青年期の間で、文芸は大きく変化した。というか、エンターテイメントそのものが多様化した。出版社の売り上げがその頃から減少の一途を辿っているのは、新たな娯楽がいろいろと生まれたからだ。そういう中で文芸に接していた人間からすれば、その物理的規模が小さくなっているのは明らかだし、それが「終わっていこうとしている」ように見えるだろ。だが、それにしたって「終わった」などとどうして過去形で言ってしまうのだろう。
 実は僕は、この状況はジャズに似ていると睨んでいる。 
 ジャズもかつてブームがあった。昭和の中期だ。僕はもちろんそのダイレクト世代ではなく、少年期にそのブームを体験した大人が「ジャズは終わった」などと言っているのを客観的に見ていたにすぎないが、その言葉にさえ子供心に僕はこう思っていた。「それって、あんたが今のジャズについていけなくなっただけじゃないの? だからジャズが終わったように見えているだけじゃないの?」 
 文芸も同じ状況なのではないだろうか。
 話は変わって、よく「今の若い者はな~」というセリフが老害の象徴であるように扱われている。
 だがこれ、本当に老害の言葉だろうか。経験上、僕の身の回りではこのセリフを四十以上の人間が言うことはほとんどない。「最近の若い奴は」なんて言い出すのは、だいたい三十代の人間だ。ある程度仕事がわかった。社会の仕組みもわかった。一端の社会人が気取れるようになった、係長あたりを拝命して仕事の責任感なるものに目覚めた。そこで初めて、まだビギナーな若手に毒づくことも覚えるのだ。
 これ、文芸もジャズも同じなのではないだろうか。
 繰り返すが、僕は文芸がやや規模を減少させていることはあれど、終わってなどいないと思っている。ただ、その最盛期に少年期を過ごした人間が、ようやく何かを言える青年期になり、一言物申したくて、あるいはちょっとわかってる自分を見せたくて、「終わった」などと背伸びして言ってみているに過ぎないのだ。
 いいか悪いかは論じないが、そんな言葉が言霊となって、「本当に終わってしまう」ことがないよう、切に願うばかりだ。

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