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26 パワハラについて


 パワーハラスメントという行為には、嫌悪感しか覚えない。
 パワハラとは、有形無形の力の差を背景に、相手に嫌な思いをさせる行為のことで、仕事の上でこれが起こる場合には「同じ職場で働く者に対して、職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為」がパワハラであるそうだ。七面倒くさい言い回しなのは、これが厚生労働省のHPからのコピペだからである。
 定義はさておき、仕事をしている人なら多かれ少なかれ、このパワハラは目の当たりにしていることだろうと思う。
 僕自身、何度もこのパワハラを目の当たりにした。目の前でこれが行われていたこともあるし、僕自身がその対象になったこともある。ある程度の鈍感さを身に着けていたからよかったようなものだが、ともすれば心を病んでいたかもなーとは、今更ながら空恐ろしく思うところだ。
 だからではないのだが、パワハラをする人間の気がしれない。
 パワハラにおけるほとんどの類型は、上司から部下に対してなされるものだ。例外もあるらしいが、僕はそれを見たことはない。だからここでいうパワハラは前提として上司から部下へのものだと勝手に定義してしまうが、自分自身が上司の立場として、部下にそういう行為をする気になるかといえば、まったくそうはならない。だからなんでパワハラをやろうと思うのか、まったく理解できない。
 そもそも、怒鳴ったり威圧したりすることに、何のメリットがあるのか。
 確かに、部下に対していらいらすることはある。いつも思い通りに動いてくれるとは限らないからだ。しかし、冷静になれば、いらつきは「部下が自分とは違う人間である」ことに起因して湧いていたものだということがすぐにわかる。要するに、同じ人間ではないのだ。ならば思い通りになるはずがない。まったく当たり前のことだ。もちろんそれで仕事に支障があるとなれば問題は問題なのだが、それとて怒鳴る必要はまるでない。滾々と、理由とともに話せばいいだけのことだ。普通はそれで部下が変わる。変わらないことももちろんあるが、人間なのだからすぐに変わらないのは自分を顧みればすぐわかることでもあり、そこは根気強く指導すればいい。もちろんそういう部下を抱え続けること自体がリスクではあるのだが、リスクを認識しつつコントロールを行うことも管理職の大事な仕事なのだし、結果的にリスクの低い人材になってもらえれば、僕にも本人にも会社にとってもよいことなのは言うまでもない。それでも改善がない場合はどうするか。そのときは評定を下げればいいだけのこと。それでも足りなければ人事総務と相談して懲戒を検討すればよいのだ。
 いずれにせよ、パワハラ的行為には何ひとつ納得できる合理性がない。
 しかしながら、世の中には経験上パワハラが多い。それはなぜか。
 僕は思う。つまり、パワハラという行為そのものが人間くさいものなのだということなのだろう。理性で抑制するでもなく、合理性を判断するでもなく、その人のパーソナリティとしてパワハラを行っているのだ。

 そうとわかれば、僕がそのパワハラ主に言うべきことはない。パワハラを行うこと、それが彼の個性だからだ。
 だから僕は彼を放っておく。もちろん、それは僕がパワハラを許容するということを意味はしない。冒頭書いたように僕はパワハラ大嫌いだし、パワハラを行う人間も嫌いだ。パワハラをする人間というのは器の小さな人間だと考えているし、一緒に仕事などしたくもない。要するに個性としては尊重するが、そんな個性から僕はきっちりと距離を置かせていただきますよ、ということなのだ。加えて、そんな人間が誰かを管理しているとわかったならば、可能な限り僕は彼をそのポストから外すよう働きかける。「人は、その器を超えるポストに就いたときに、パワハラを行う」と言われている。器を超えるポストにいること自体、その人間にとっても不幸なことだから、彼のことを思い降格していただくのである。
 さて、そんな僕だが、以前「匿名性の向こうで僕を批判した人間を、僕は拒絶する」旨のことを書いた。これはパワハラに当たらないのか、という反論があることを予想し、ここにひとつ僕の態度を明らかにさせていただくと、僕のその拒絶はパワハラではない。なぜなら、冒頭定義のとおり、この拒絶は力の差を背景とはしていないからだ。
 僕は、嫌いな人間は力の差云々とは無関係に嫌いだ。だから相手が誰だろうが拒絶する。それがたとえ、僕よりも大きな力を持っている相手だったとしても。

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