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24 小説家適性について

 

 どんな人が小説家に向いているかという質問を、僕は受けたことがない。
 理由はわかる。きっと、僕がよい小説家として認知されていないからだ。万年平社員のロートルに「会社員としてうまくやれるコツは?」などと絶対に聞かないのと同じことだ。
 しかし、このギョーカイのあれやこれやを見て、客観的、かつ確実に「ああ、こういう人は小説家に向いているんだろうな」と思うところはある。私見だし、それについて別に述べてもいいと思うので述べさせていただく。
 結局のところ、「小説を書く」人が小説家に向いている、と思う。

 何言っているんだ、当たり前じゃねーか、トートロジーだろそれ、と言う方もいらっしゃるかもしれない。おっしゃるとおりである。反論はしないし、余地もない。
 しかし、世の中には小説を書かない人間が一生懸命小説家を目指しているケースも随分とあるように思う。ご留意いただきたいのは、僕がここで言っているのは、能力のことではない。小学生でも「小説を書く」人は小説家に向いているし、大学者でも「小説を書かない」人は小説家には向いていない。
 なんのことやらだと思うので、「小説を書かない」人を例に挙げて説明する。
 彼には能力がある。難しい文章も操るし、語彙もある。構成力もあるし、アイデアもある。僕からみて今すぐにでも小説を書くべきだ、いや書いてほしい、書いて傑作を残してください、と思わせる人だ。実際、彼はあちこちでいろんなことを書いている。企画書。論文。ネットのコメント、等々、その総量は膨大にわたり、月間ベースでは原稿用紙で百枚以上の分量になるようだ。
 しかし、彼は小説家には向いていない。
 なぜなら、小説を書かないからだ。
 つまり、だ。平たく言うと、小説家適性があるかないか、それすなわち、具体的に行動に起こしているか否かということなのだ。適性がある人は、適性云々以前にもう書いている。適性を判断する余地を自分に残してすらいないのだ。そういう人だからこそ、もはや欲求として書くことになる。だから現に書いている。これこそ、小説家そのものであろう。
 まとめると、僕が受けたことがない「どんな人が小説家に向いているか」という質問に対する僕の答えは、こうなる。
「今小説を書いているなら、小説家適性があります。書いていなければ、小説家適性はありません」
 決して的を外した回答でもないと思っている。

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