三文文士・周木律
21 人前で話すことについて
実は結構、人前で話す機会が多い。
そしてそれが割と好きだったりする。自分では人見知りで引っ込み思案な口下手だと思っているのだが、実際演壇に立つと別人格が現れているのかもしれない。
人前で講演するとき、僕はだいたい、あらかじめ原稿を用意しておく。あれを話そう、これも話そう、そんなことを考えて原稿を作る。よく言われるのは、三分間のスピーチの原稿が八百字だということなので、それを考慮し、話す時間と勘案して字数を調整する。そうやって、完璧な原稿を作っておくのだ。
ところが、実際僕がこの原稿どおりに話せたことがまずない。
なぜかというと、実際に演壇に立つと、そのとき新しい話のネタをどんどんと思いついてしまうからだ。
必然、原稿はあまり意味をなさなくなる。喋りのネタを尽かせないためのヒントとして項目くらいは見るが、結局アドリブであれこれ話すことになるので、原稿はあってなきがごときものとなるのだ。
こうして、当初予定していた講演は大抵時間オーバーとなり、あるいは尻切れトンボのままに、話を終えることになるのだ。
だったら原稿なんか最初からつくらなきゃいいじゃん、とは言われるのだが、それはそれで不安でもある。結局、人前で話をするたびに結構な時間を費やして原稿をつくり、結果的にそれをゴミにしてしまうのである。
こうした態度は、僕の小説を書く態度にも表れているような気がする。
小説を書く前に、僕は結構びっちりとしたプロットを書く。あそこで誰が何を喋るか、どこにどういう伏線を差し込むか、そのセクションの分量はどのくらいか、などということを、最低でもA4で四、五枚、重厚なものになると何十枚も作っている。
しかし、実際書き始めると、それは参考程度にしかならなくなる。
書きながらさまざまなことを思いつくからだ。思いついたものを思いつくがままに書きくだす。こうして最終的に出来上がったものは、当初のプロットから大筋では逃げないものだとしても、かなり質感が異なったものとなる。
結局のところ、人のアウトプットの仕方というのは、講演だろうが小説だろうが、どんなフィールドでも大して変わるものではないのだなあ、としみじみ思うのである。
さて、結論。こんな僕ですが、講演は結構好きなので、いつでも受け付けている、ということだけお伝えします。
どんなテーマでも、なんでも話します。顎足と都合がつけば、特に講演料は要りません。三文文士に話してもらいたいことなんかねーよ、というご意見もあるかと思いますが、一、二時間のにぎやかしに、是非どうぞ。