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20 匿名性について

 

 以前、悪口について書いたが、こと現在の僕に対する悪口のほとんどは、匿名性の壁の向こうから投げられるものである。
 それは、これも以前書いたことだが、批評とはなかなか面と向かってできるものではないからだ。だから悪口は陰口の形になる。たとえその悪口が全世界に開かれた媒体、すなわちネット上で書かれたものであっても、匿名性がある限り、悪口を言う側の主観としては陰口とそう変わらない。誰が言ったかわからなきゃ仲間内で愚痴っているのと同じ、そう考えているのだ。
 それはそれでいい。匿名だからあけっぴろげに言えることもある。本音ベースの話がそこに現れるのならば、一応建設的だともいえる。だけれども、僕はあえて彼らに警鐘を鳴らしたい。
 君たちが匿名性の向こうにいるとき、君たちが批判する相手もまた匿名性の向こうにいるのだと。
 何が言いたいのか。もちろんニーチェを気取っているのではなく、匿名性に安穏としていると、思わぬしっぺ返しを食らわないとも限らないよ、ともすれば君以外の人に大いに迷惑が掛かることもあるのだよと、知っておいてほしいのだ。ひとつ、例を挙げる。
 僕、周木律はしばしばネット上で口さがない批評を受ける。
 みたび以前書いたことになるが、僕は批評は批評として真摯に受け止めようと考えている。これは間違いない。だが、だからといって批評の主を恨まないわけではない。いや、恨む。もちろん逆恨みである。くらだない。大人げない。そんなことはわかっているが、批評は批評としてしっかり受け止めようとすればするほど、批評の主が批評そのものから分離し、単なる憎悪の対象と化していくのだ。「言うことはわかる。わかるけど、畜生、この野郎」というわけだ。
 批評する側もそれはわかっていると思う。だが、直接自分が恨まれることを覚悟している人間は少ないだろう。なぜなら、そこには匿名性の壁があるからだ。
 実際、僕にはそいつが誰かなどわかるはずもない。だから僕は恨みのやり場を見つけられないまま、とりあえず怒りに任せて、その人間に関するリサーチを始めてみたりする。
 すると、ネットというのは面白いもので、なんとなくその人間に関するヒントらしきものが見つかる。いくつぐらいの人間か。男か女か。どこに住んでいるか。どんな大学に通い、何を勉強しているのか、あるいはどの会社に勤務し、いかなる仕事をしているのか。
 つまり、誰かはわからないまでも、属性がわかるのだ。
 そこで僕は、心のデスノートにその属性を書きつけておく。これこれこういう属性を持っている人物がいたら注意せよ、厳しく扱え、拒絶せよ、と。
 さて、当の批評の主、すなわち匿名性に安穏としていた当該人物が、あるとき、どうしたわけか、僕とかかわりを持ったとする。
 当該人物は当然、僕が周木律だとは知らない。なぜなら、僕もまた匿名性の向こう側にいるからだ。普段の僕は、三文文士周木律ではない。まったく別の人物として、別の名前と別の仕事を持ち、当該人物が想像しない生活を送っているのだ。であればこそ、当該人物が僕のことを周木律と認識しないまま、かかわりを持つ可能性が大いに出てくる。
 一方の僕も、その人物がもちろん批評の主だとはわからない。だが、その属性を聞いた瞬間、心のデスノートが開かれる。注意せよ、厳しく扱え、拒絶せよ、そう自分自身が警告を受ける。結果、どうなるか。

 当該人物は、わけもわからないまま僕に拒絶されるのだ。
 君たちが匿名性の向こうにいるとき、君たちが批判する相手もまた匿名性の向こうにいるとは、そして君以外の人に大いに迷惑が掛かることもあるとは、こういう意味なのだ。

 想像力を働かせれば容易にわかることだ。だから僕は極力ネット上で何かを批判しないようにしている。なおこの文章も特定の誰かに対する批判ではなく、警鐘である。当該人物が悪いと言っているのではなく、心から心配しているのだ。
 面白いことだが、匿名性の向こうにいる人物ほど、その属性をほとんど無防備なほどに顕わにしている。したがって、僕はすでにこのようなリストを心のデスノートに膨大量を作成している。もしかしたらこれから、僕に会われた人の中に、二言三言会話を交わした瞬間に僕に拒絶される人がいるかもしれない。それは、心のデスノートの記述とあなたの属性が合致したからだと考えていただいて差支えない。もしそうなったとき、あなたに僕を批判した心当たりがないのであればぜひ、ネットのどこかで僕のことを口さがなく批判した誰かさんのことを、大いに恨んでいただきたいと思う。

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