top of page

2 小説家になったことについて

 

 小説家になるとは、ほんの五年前までは思ってもいなかったことだが、どうしたわけか現在、文章を書いてそれがお金になるという商売に「就かせていただいている」。
 なぜこうなったのかは、いまだに自分でもわからないが、要するにラッキーだったのだろう。
 道のりは本当にたまたまでしか構成されていないだ。たまたま小説を書いてみた。たまたまそれなりの分量を持つものになった。たまたま手近なメフィスト賞に送ってみた。たまたま上段に載った。たまたまその時の仕事がハードで、ストレス解消が必要だったので、書き散らしてはまた送った。またたまたま上段に載った。たまたま編集者から連絡がきた。たまたま賞がもらえた。たまたま世に出た。ただそれだけだ。すべてはたまたまの積み重ねの結果にすぎない。
 だからよくわかっているのは、僕には才能はないということだ。文章修業もしていなければ、たいして本も読んでいない。しいて言えば原稿用紙五百枚程度の小説を根気よく仕上げるだけの忍耐力があるくらいだ。こう言うとフザケているという人が多いが、自分でもフザケていると思う。周木律なんていうフザケたペンネームにしたもの、かくのとおり出自がフザケているからにほかならない。だから僕は自分を作家ではなく、ただの三文文士なのだと認識している。
 今後も同様、細々とでも本を書かせてもらえればそれで満足だし、依頼がなくなればそこで僕の小説家としての活動はおしまいだ。あくまで僕はたまたまの積み重ねでこの世界にいるにすぎないのだから当然だ。だからこそ文筆業に就いているのではなく「就かせていただいている」。自分が選んだのではなく、人に選んでもらっただけだ。
 編集者だったり、批評家だったり、読者だったり、そういう方々に選んでもらって今がある。
 だから僕は、そういう僕を選んでくれた人々にできるだけ媚びて生きている。このラッキーがより長く続くように。

bottom of page