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15 悪口について


 悪口というのは、進化するものだと思う。
 進化といっても、「馬鹿」「くそ馬鹿」「くそ馬鹿野郎」「激くそ馬鹿野郎」のように、悪口そのものが進化するということではない。もちろんそういう意味での進化もあるが、僕がここで申し述べる悪口の進化というのは、悪口とは言う側の成熟度によって使われ方が変わるということだ。
 もっとも原始的な悪口は、当の相手に直接使われる。面と向かって「ばーかばーか」と投げるのだ。言うまでもなくこれは大変に子供じみている。今目の前にいる相手に悪口を言うというのは、とても幼稚に見えるし、実際にそういうことをする大人は幼稚であることが多い。
 だから人は、いつしか面と向かって悪口を言うのは止める。その代わりに始まるのが陰口だ。一定のコミュニティに共通の相手をつくり、コミュニティ内でそいつの悪口を言い合う。陰口の機能は、おそらくコミュニティの結束だ。同一共通の相手に対する悪口を通じて共感し、コミュニティ内での信頼感を高めるのだ。こう書くとなんだか必要不可欠な行為のようにも思えるが、なんのことはない、これは別の言い方をすればただの「いじめ」である。したがって、このプロセスにあるコミュニティは、小中学校にあることが多い。悪口を通じて嘲笑するなどというようなしょーもない行為を通じた共感などぺらぺらに薄いものだが、そんな薄い共感で結束できるのは、まだ精神的に未熟だからだ。もっとも、時折こういった陰口は高校生や大学生、立派な大人にも見られるから、歳をとったからといって成熟したということにはならないのだろう。
 ところで、最終的に悪口は何に進化するか。その着地点のひとつは、コミュニティを超えて、悪口を不特定多数に声高く叫ぶようになるという行為だ。すなわち身内の共感を呼ぶのではなく、大衆の共感を呼ぼうと考えるのだ。この悪口はもちろん的確にカウンターパートにも届き、その相手からのリアクションが再び声高な悪口となって戻ってくる。このような応酬にはいい側面と悪い側面がある。すなわち前者としての議論、後者としての騒音だ。そのいずれも国会議事堂などで多くみられるのは言うまでもない。ただ、このような形態は、少なくとも悪口が最終的に成熟した発展的なものであることは間違いない。世の中は悪口で前進するのだ。
 そしてもうひとつ、進化の最終形態がある。
 それは、沈黙だ。
 悪口を言うことも、主張することもやめ、口を閉ざす。この態度がいいかどうかはわからないが、おそらく大多数の大人がそうしているだろう。世の中は平穏で、波風もそんなに立っていないように思えるが、それは多くの大人が悪口を言うのをこらえ、沈黙を貫いているからに他ならない。
 ひるがえって、僕だ。
 僕はできるだけ悪口は言わないように努めている。言いたいことは山ほどあるが、悪口にはあまり益がないように思えるからだ。昔はコミュニティ内でああだこうだ言っていたこともあるが、あるときそれが虚しいと気づいてからは止めている。最終的に僕の悪口は沈黙に進化したのだ。 
 だが、最近はこの態度が少々揺らいでいる。文筆業という副業があるせいだ。仲間内だけでヒヒヒと楽しむことには飽きたけれども、不特定多数に騒音をまき散らす快感はいまだ味わっていない。幸いにして今の僕は著作を通じて不特定多数への悪口を声高く叫ぶことができる立場にある。その魅力的な行為に、僕ははたして抗えるのか。
 まったく、不安でならない。

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